価値観と感性、そして折り合い。

10人の人がいれば、10通りの価値観と感性があるだろう。
100人の人がいれば、100通りの価値観と感性が。。。
 
 
本質的には、それらは相成れないものなのかも知れない。
だけど、ある一定数の人数が集まって行動する集合体においては、必要最低限の共通的な価値観や感性を形成し、共有を図る。
そして、設定した目標や命題に対して、また得たいと思う何かのために、個々が集まり力を増幅させそれに取り組む。
それが、営利的なものでも、非営利的なものでも、原理とルールは同じだと思っている。

営利的なものではビジネス、つまり仕事。
非営利的なものでは心地良い時間の共有、つまり仲間とか夫婦。

そして、前述のルール。
これも、必要最低限の決めごとを設けないと、足並みが揃わない。
足並みが揃わないと、力は増幅されないものと思っている。

この背景にあるのは、やはり個々の価値観と感性の違いだと認識している。
つまり、個性とかスタイルというもの。
故に個々のそれらは異なるものなので、最低限の指針統一化を形成する。

では、属している集合体の価値観や感性との不整合が発生した場合。。。
 
 
その原因は初めから相成れない価値観や感性だったかも知れないし、その集合体の価値観や感性が変化したのかも知れない。
また、その人の価値観や感性が変化したのかも知れない。
そして、その人の価値観や感性が変化した背景には、何かしらの要因もあるはず。
つまり、心境の変化と言われるもの。

この心境の変化とは何なんだろう?

何かにリスペクトしたり、病的な理由によるものや甘えや我が儘によるものか。。。
 
 
ただ、そのような場合において、折り合いをつけようとするのも事実。
自分の場合、仕事は収入を得るためものと割り切っている。
家族においては、血のつながりを持とうと契った仲だけど、その契った相手もひとりの人であり、その人となりの部分は尊重するべきと思っている。
これらも、ひとつの折り合いだと思う。

何かしらの理由付けや意味付けにおいて、妥協を得る。
また、そこだけは決して折り合いがつかない箇所と認識し、その部分だけは共有をしない方法もあると思う。
大人的なやり方とでも言うのだろうか?
この折り合いをつけることを、不器用だからと理由にならない理由をつけて回避するのはアンフェアであり、人に対する裏切りだと思っている。

でも、どうしても折り合いが付かない場合。
 
 
無理をせずに、その集合体から辞するのがいいのだろう。。。
ただ、その際には、自分自身を顧みることが必須だと思う。

何故相成れないのか?
自分の甘えや我が儘ではないのか?
もし、そうだとしたら、それを制すことは出来ないのか?

振り返ってみて、自分の甘えや我が儘ではなく、確固たる信念によるものであれば大腕を振って辞すれば良いはず。

もし、自分の甘えや我が儘が原因であっても、それを制することが出来ないのであれば、その時も潔く辞するべきだろう。
つまり、器じゃないというやつ。
道を間違ったはず。

進むべき道が違うだけだろう。
最終目的地が同じであっても、己の道でなければ意味が無い。
道を誤ったことを認めて、己の道を進むべきだろう。

道を誤ったことを認め無ければ、小さな嘘をつくことになるはず。。。

そうなってしまうと、先日このブログに書いた内容となってしまう。
多分、小さな嘘をついた人は、自分がその嘘に気付いていることを知らないはず。
これは、とても悲しいこと。
こんなに悲しくて、辛いことなどしなければいいのに。
人についた嘘は、裏を返せば自分に対してついた嘘のはず。。。

そして、最終目的地を考えると、自分の場合はこの世から旅立つ時に笑えることだ。
たった、それだけのこと。

だから、プライドなんていらない。
誇りさえあれば。

言葉なんていらない。
行動で示してくれれば。

涙なんかいらない。
飛っきりの笑顔があれば。

最後に笑えれば、それだけでいい。。。
 
 

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